■■■ This Love ■■◆




 彼の信じるものは愛で、それは生きる手段でもあった。
 幾千もの愛という言葉が綴られた書物を胸に抱き、彼は生きた。
 捨て子の自分に屋根と食べ物を、何より生きてゆくことを許されたことだけで、彼は
もう幸せだったのだ。
 疑いはない。自分は愛されている。
 決して自由は多くなく、裕福なわけでもない。それでも彼は幸せだったのだ。

 そして、今も――。


「ねえーねえねえ、もうお話はおしまい?」
「あっちの棚の本は? あれはまだ読んでもらってないよう」
 
   小さなてのひらが、彼の服のすそをつかんだ。
  読み終えたばかりの本を閉じると、子供たちはいつもそうやって彼の顔を見上げる。
   彼はほんの少し弱ったように眉をよせながら、頭をかいた。

「今日はこれでおしまいにしましょう?」
「もっと聞きたいよー」
「うんうんっ、もっとお話きかせて」
「でも……もう時間が……」
「やだやだっ、帰らないっ」
「こ、困りましたねえ」
 
 子供たちのふくれた顔を見ると、むげに帰れとも言えないのが彼だった。
 ちらりと窓の外を見るともう日は傾いている。
 西の丘が赤く染まったら、この村はすぐに暗闇に包まれる。
 どうしようか、と彼が言葉に詰まっていると、大きな手のひらが子供たちの頭にそっ
と触れた。

「もう夜が来るぞ、そろそろお開きにしなさい」
「ええー、でもっ」
「夜に出歩く子供は、化け物に食われてしまうぞ?」
 優しい物言いではあったが、その低くしわがれた声で放たれた「化け物」という言
葉は、子供たちの心を一瞬にして凍らせる。
「そうですね、恐ろしい化け物が来てしまいますから、明るいうちに帰りましょう?」
「先生、ほんとに化け物っているの?」

 子供たちは顔をあげた。彼もまた同じように先生――この教会の主で、彼の父とも
言えるその人を見つめた。

「ああ、いるさ。夜の闇にまぎれて人をさらってゆく化け物がね。ほらごらん、あの
森の向こうの村では、もう幾人も消えていると先生は聞いたぞ?」

 ごくり、と子供たちが息を呑む感覚が彼にも伝わってくる。
 窓の外に見える森は、一本一本の木々が揺れてまるで生きているように見える。
 それは確かに化け物のように感じられた。

「さあ、だから皆帰りましょう?」
「う、うん。帰る」
「でもまた明日もご本読んでね」
「ええ、もちろん」

 彼の服を掴んでいた手がひとつふたつとゆっくり離れてゆく。
 ほんの少しの寂しさと安堵に、彼はふっと息をはきだした。

「あのね、お手伝い先生は帰り道だいじょうぶ?」
「大丈夫ですよ、私のお家はここですから」
「そっかあ。よかったぁ、お手伝い先生が化け物に食べられちゃいやだもん」

 心配げな幼い声に、彼の胸はいっぱいになる。
 小さなその声は、彼のことを本当に思いやっていた。

「心配してくれてありがとう。でも私は大丈夫なんですよ」
「よかった……さようなら、お手伝い先生!」
「はい、さようなら。みんな気をつけて帰るのですよ」

 子供たちはみな可愛らしく返事をして、出口の方へと散ってゆく。彼は戸口に立っ
て、ひとりひとりの背中を見送った。
 最後の一人の小さな姿が見えなくなると、彼は振り返って先生に声をかけた。

「やっぱり先生は子供たちの扱いがうまいですね」
「そんなことないさ。君の本の読み方がうまいから、皆帰りたくないと駄々をこね
ているんじゃないか」
 
 ほめられた彼は嬉しそうに笑みを浮かべて、かすかに頷いた。
 子供たちに物語を読み聞かせること、薪を割ること、食事の用意をすること。
 どんな小さなことでも、彼はほめられると心から喜んだ。
 そんな些細なことで、自分はここにいていいと思えるのだ。
 それがたとえ真実であろうとなかろうと、彼は愛されていると感じたのだ。

「さてと」

 椅子から立ち上がった先生は、帽子に手をかけた。
 いつもならもう夕食の準備を始める時間だ。彼は首を傾げて尋ねた。

「……こんな時間からおでかけですか?」
「ああ、隣村の教会で、会合があるのだ。帰りは数日後になるかもしれん」

 ますます不思議そうな顔をした彼に、先生は声を低くして答えた。

「化け物の話……あれは嘘じゃないんだ。最初は家畜が行方知れずになっているとい
う話だったんだが、近頃は人まで消えているそうだ。戻ってきた者はいない」

 彼は息を呑んだ。数瞬の沈黙が二人の間に広がってゆく。

「幸いこの村ではまだ……いや、春先にルルが行方知れずになっていたな」
「…………」
「これ以上被害を広めてはならん。私が留守の間は君がこの村を任せることになる。
すまないが、頼んだぞ」
「はい」

 大きな手は彼の肩を二度ほど叩いた。
 化け物は村にはやってこない、そう聞いていた。夜に歩くものを襲うのだという。
 子供を咎めるためのおとぎ話。夜に出かける者への注意。そんな意味の作り話だと
ばかり思っていた。しかし彼にとって、それは身近な現実だった。

「ここは大丈夫です。もしも……もしも化け物とやらがきたら、私が一番になって食
べられましょう」
「……馬鹿だな、そんなこと言うもんじゃない」

 先生は彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 いまや自分よりも背の高くなった彼を、それでも子供のように慈しんでいた。

「先生も気をつけて」
「ああ、いってくるよ」

 日は傾き、窓の外の風景は赤く染まっていた。
 夜はもうすぐそこだ。先生が森をぬけるまでに闇が深くならなければいいのだけれ
ど――
 彼はそう思いながら、歩き出していった背中を見つめていた。


 夜がくる。
 彼にとってそれは、もうひとつの朝になる。


「おはようございます」

 黴臭さにはもうとっくに慣れていた。
 教会の奥、小さな墓地の端の地下室は彼以外立ち寄る人などいない場所だった。
 ましてや夜の闇が深くなれば、誰もそこに目をやることなどない。
 扉を閉めた彼は、ろうそくの明かりを消した。
 わずかな明かりでさえ嫌う彼女のため、彼はすべてを覚えていた。
 地下室の階段の数、わずかな段差、彼女が好む、石でできた壁の隅までの距離さえ
も――。

「もう夜ですよ。ずっと一人で寂しかったでしょう」

 彼の手に、するすると金色の髪が絡みつく。それは彼女が彼女の姿だった頃の唯一
の名残だった。太陽の光がそのまま宿ったような金色は誰もが愛していた。
 だからこそ、彼は最初その名残を見るたびに胸を痛めていた。
 そして、今は心から愛していた。

「少し絡んでいますね」

 部屋のすみに置いた箱の中から、彼は櫛をとりだした。
 金の髪に櫛を通すとすぐに絡んで止まってしまう。そのたびに彼は丁寧に解いていっ
た。

「私がもう少し器用だったら、可愛らしく結ってあげられるのですが」

 彼がすまなさそうにそう言うと、彼女は答えるように体を震わせた。
 彼女の名前はルル。
 誰もが愛する金色の髪をもつ、明るい少女だった。
 そして年頃の娘は誰もがそうなるように、自然に恋に落ちた。
 ルルが恋したのは彼――教会で手伝いをしながら生きている彼だった。

「何かお話でもしましょうか?」

 冷たい地下室の壁に彼の声は柔らかく響いた。
 返事はない。ルルはふるふると体を震わせるだけだ。
 けれど彼には聞こえていた。この姿になる前のルルの、高くよく通る声が耳元で聞
こえていた。

「……お腹、すいたんですか?」

 ルルが震える。こくんと頷くように、金の髪が揺れた。

「わかりました、ではお食事の用意をしましょうね」

 彼は立ち上がった。食事の用意をしなければならない、ルルはそう望んでいる、で
もルルは外には出られない。
 彼ができることは、ただひとつだ。

「……ルル?」

 歩き出そうとする彼の足に、ルルの髪が絡みつく。

「寂しいのですか? ごめんなさい。でもすぐ戻ってきますから」

 彼は優しく、一本も傷つけないようにルルの髪を解いてゆく。
 あの時と同じだ、と彼はふと思い出した。
 地下室の淀んだ空気が胸の奥まで入り込んでくる。呼吸がとまってしまう感覚が、
彼を襲った。

 あの時どうして手を離してしまったのだろう。

 何度も何度も彼は自分を責めた。
 ルルは恋に落ちた。彼に恋をしてしまった。そしてルルはある日、彼に思いを告げ
た。恥ずかしげに、でもまっすぐな瞳で恋心を告げられた彼はとまどった。
 彼は愛し方を知らなかった。愛されることばかりを追い求めて生きてきた彼は、愛
してほしいと差し出された手を取ることができなかった。
 ルルは泣いた。
 泣き顔を誰にも見られたくなかった彼女は、一人森の中で泣いた。
 森の中には化け物がでますよ――そんな古い言い伝えも、悲しみにくれるルルの頭
からはすっかり消え去っていた。
 その夜、彼は再びルルの姿を見ることになる。
 自分の前から泣きながら飛び出していった彼女を、彼は最初まっすぐに見ることが
できなかった。

「ねえ」
「……はい」
「どうしよう、どうしよう、どうしようどうしよう」
「……ルル?」

 ルルは彼の腕の中にどさりと倒れこんだ。
 本当なら、もっと優しく抱きしめてほしかっただろう。好きな人の腕の中で幸せな
ため息をつきたかっただろう。
 けれど――ルルの体はもうその瞬間から変化していた。

「ルル? ルル? どうしたんですか?」
「どうしようどうしようどうしよう……ごめん……なさい」
 
 彼がルルの声を聞いたのは、それが最後だった。
 なにひとつ悪くないのに、最後の言葉はかすかな謝罪だった。
 
 森の中で泣いていたルルに何があったのか、本当の意味でわかったのは数日後だっ
た。言葉を失い、体の熱を失い、呼吸を止めてもなおルルは生きていた。
 少しずつ爛れてゆくルルの体は腐り落ちたのではなく、生まれ変わった。

「ルル、許してください」

 彼は祈った。
 愛を信じて生きてきた。
 なのに、彼は愛を与えることができず、差し出された手を離した。
 ルルは森へ行き、罰を受けた。それが何であるのかは彼にはわからない。大人たちが
言い伝えてきた化け物がそれなのだろうか。声をなくしたルルには答えようもなく、彼
は問いかけもしない。
 ただひとつ間違いのない事実は、彼がルルの手を離さなければ良かったということだ
けだった。

「ルル、許してください」

 気が狂いそうになった夜もあった。自ら命を絶とうとした日もあった。
 ルルは自分のせいで人ではないものになってしまった。
 誰からも愛されたルルは、たった一人、冷たい地下室の闇でしか生きていけないもの
になってしまった。

「ルル。一人にはしませんからね。大丈夫」

 彼はそっとルルの体を撫でた。
 誰にもしたことがない、優しい口づけを冷たい肉塊に捧げた。
 人を愛したとき、誰に教えられなくともそんな口づけができることを、彼は知った。

「夜の森には化け物がでますよ……か」

 かたん、と乾いた音がした。
 大きな鎌は、教会の奥の雑草を刈り取るために彼が幼い頃から使い慣れていたものだ。
今では片手で扱うことすらたやすい。

「どうして私の前には出てきてくれないのですか?」

 返事はない。
 星々が上りつめた夜空に、彼は目を細めた。

「ねえルル、本当に遅くなってしまったけれど……あなたのことが好きです」

 返事はない。
 ルルはもういない。ルルだったもの、しかいないのだ。

「私も同じになりたい。でもなれないならルル――」

 もう幾夜をこうして過ごしただろう。
 数えることは、とっくにやめていた。

「私はあなたを一人になんて、しませんから」

 胸の中に溢れてくる想いを、彼は愛だと気づいた。
 本当は幸せなのかもしれない、と彼は思った。
 人を愛することに、やっと気づいたのかもしれないと、雲間に翳る月を見上げて彼は
呟いた。

「ルル、いってきます」

 こうして彼は森の中へ行く。
 真夜中の闇にまぎれて、ルルの食事の用意をするために。
 

>>解説
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